このブログの副テーマでもあるカメラについて。先日新しいカメラを購入したので改めてカメラを使う理由について書いてみました。
わざわざカメラを使う理由
自分なりに色々考えて言語化を試みたんですが「写真そのものだけでなくカメラで写真を撮るという行為自体に楽しさや価値を感じているから」になるのかなと思いました。最近書いたなぜ山に登るのかという記事で「山頂は体験である」というようなことを言いましたが、それに近い気がします。
カメラを使わないと撮れない写真を求めて
もちろん大前提として「カメラを使うとこんな写真が撮れるんだ」という感動が根本にあります。背景や手前を大きくボケさせた写真や長秒露光で光の軌跡を1枚におさめた写真や星景写真であったり。
一眼カメラでなくともSONY RX100シリーズのような大型センサーのコンパクトデジタルカメラでもこうした写真を楽しむことができますが、とにかくスマホでなくカメラをわざわざ使う意味はこれが一番です。
写真も体験の要素も大きいから
しかしもし仮に全く同じ写真が吐き出されるとしても「カメラを使って写真を撮ること」はスマホにはできません。ここで言うカメラとは我々が好んでいるファインダー付きでレンズ交換式の一眼レフやミラーレス一眼のことですが、カメラを使って写真を撮るという体験はスマホでは得られません。
ファインダー越しに見える世界にのみ集中して景色を切り取って行く体験はスマホやコンデジの画面を見ての撮影では得られないものです。特に山頂など圧倒的な自然の中でそれをすると時々世界を独り占めしているような気分になれます。
写真といえばスマホで撮る方が馴染みのある人にとっては「たかが写真になんでわざわざ」と思うかもしれませんが、逆に言えばカメラがあればたかが写真を撮るという行為に楽しさや気持ちよさという付加価値が付けられるならお得じゃありませんか。
違いを感じないシーンもあるけれど
正直、暗所や星景撮影、強烈なボケを使った写真などを除けば、天気の良い日中の景色なんかであればスマホで撮ろうが高いカメラで撮ろうがあまり見分けが付かないと思います。もちろん色合いなどの違いはあれど、それはカメラの性能ではなく単に画作りの違いです。特にスマホの小さな画面で見る分にはなおさら。
しかし「じゃあスマホでいいじゃん」とはなりません。それを言って良いのは裸体が隠せれば服なんてTシャツだけでいいじゃん、歩きやすいスニーカーだけでいいじゃんという思考回路の人だけです。
あまり差が出ない場面もあれど、別にカメラが必要か否かでバチバチする必要なんてなくて、撮影という行為の気分が上がるならカメラを使う理由としては十分すぎると思います。
また逆説的ですが、カメラを使うようになるとカメラを使わないと撮れない写真を撮るようになるので「スマホでいいじゃん」からは遠ざかります。スマホでは出せない画を求めてカメラ沼、レンズ沼…それが幸か不幸かは置いておいて。
カメラという道具の官能性
あらゆる趣味に共通する部分ですが、機材自体が好きという要素も極めて大きいです。要するにゴツくてずっしりしていてボタンが色々付いている機械をいじっていたいのです。例えば私がずっと愛用してきたX100Fというカメラは、往年のフィルム時代のコンパクトカメラのようなクラシカルな外観とダイヤルを中心とした操作系で唯一無二の魅力を持っています。
また最近そのX100Fの故障により後継機として購入したNikon Zfというカメラは、フィルムカメラの名機Nikon FM2をそのまま最新スペックで再現したようなルックスで、当時のカメラに馴染みがなくともモノとしての魅力があり過ぎます。カメラという言葉より写真機という名前がよく似合います。
金属製の冷たくずっしりとしたボディに真鍮製のダイヤルに痺れるようなシャッター音。ISOやシャッタースピードをわざわざマニュアル操作したり。まあ大半はほぼオートにしてますけど、たまにはそんなアナログを楽しむ余地があるのは良いものです。
あと冒頭に出てきたD750という一眼レフはシャッターを切る度にボディにかすかに残響が感じられるのがとても官能的でした。機械が動いているのをこの手でダイレクトに感じられるのはゾクゾクする思いでした。
私がメイン機として使っているOM-D E-M1mark2は山で撮影をする道具として最高の性能を誇りますが、カメラ自体にモノとして強い愛着が湧くか、撮影以外の部分に感覚的に訴えてくる何かがあるかというと否。
山に持ち出すならできるだけ小さくて軽くて汎用性の高いカメラが便利です。しかしそのような環境でなく日常や体力も対して必要としない旅行なんかではモノとして愛せる道具を使いたい。むしろゴツくてずっしりくる単焦点の不便なカメラがむしろ良いわけです。
高性能なスマホカメラ
しかし最近のスマホカメラは正直素晴らしいと思います。上述したような従来スマホカメラが苦手としていたボケた写真や暗所撮影もかなり克服してきており「大きくて重くてゴツいカメラでなければ撮れない写真」がスマホでも楽しめるようになってきました。
もちろんあくまで被写体を認識してそれ以外の部分をボカす処理をしている写真なので、通常のレンズの特性を利用する写真とは異なります。例えばピント面から同じだけ離れている背景のはずなのに一部だけはピントが合っているとか、メインの被写体の一部が背景と認識されてボケてしまうといったおかしな写真になることがありますが、スマホサイズのカメラで「それっぽい写真」が撮れるのは革命的なことなんじゃないでしょうか。
特に広角レンズと望遠レンズを備えた3眼スマホは確実にゲームチェンジャーだと思います。広角に関しては私でも山でスマホの広角写真で代用することも多いくらい。
上2枚はいずれもiPhoneの広角レンズで撮った写真ですが、結構気に入っている写真です。軽量化のため縦走登山では超広角レンズを置いていくことも多いのでとても重宝しています。やはり広角でないと表現できない迫力はあります。
カメラを使うと人生がちょっと豊かになる気がする
そもそもスマホが優秀すぎて案外ファインダーを覗いて写真を撮った経験がない人も結構いるのではないでしょうか?長秒露光や星景撮影のようにカメラ以外の機材や高価なレンズが必要になる撮影もありますが、いきなりそんな難しいことを考えなくとも「カメラを構えてファインダーを覗いて写真を撮る」だけでも面白いですよ。先のような難しい撮影をするのはそれが楽しくなってきてからやりたくなったらやればいいのです。
カメラを使うのは自分でコーヒーをドリップするようなもの
私も細君もコーヒーが好きで一時期ハンドドリップをしたりネルドリップに手を出したりしました。毎日飲むものとしては手軽なドリップバッグやDRIP PODを使いますが、時々時間に余裕があるときにはハンドドリップしてみたりフレンチプレスで淹れてみたりしています。
これって私にとってはちょっとカメラと似ています。日々とりあえず記録するだけならiPhoneでも良いものの、カメラを構えてじっくり写真に向き合う行為は同じものではありません。お湯で溶くだけのインスタントコーヒーを流し込むように飲むのと、豆を挽いてドリップして一息ついて飲むコーヒーは詳細な味の違いが分からないとしても同じではないはずです。
休日にちょっと凝った料理をしてみるとか、着脱が大変な革ブーツを履いて出かけるだとか、そういうのに近い気がします。(もっとも私の場合はカメラ狂が高じて基本毎日毎回ネルドリップするような状態になっていますが)
無駄なものこそ人生を彩る
こうしたものはなくても困らないし、必需品でもないし、知らなければ気にもならない世界かもしれません。しかしそういったものこそこの地獄のような現代社会を生きる我々の人生を彩ってくれるものではないでしょうか。
溺れるほどの過剰な情報で溢れコスパ、タイパという言葉が蔓延する殺伐とした時代だからこそこういう無駄じゃないの?と思うことをしてみるのが良いと思います。
ちなみに私はタイパという言葉が好きではありません。タイムの短さにばかり注目して肝心のパフォーマンスを蔑ろにする本末転倒な人ほどよく使いたがるからです。コスパという言葉も単に安さしか見ていない人も多いと感じます。安かろう悪かろうをコスパコスパ言うのも、映画を15分に凝縮した映像も虫唾が走ります。そんなものを買って、観て、人生のなにかほんのわずかでも豊かになるんですか?と問いたい。
たかが写真を撮るのにわざわざ大きくて重くて自分で色々設定しないと上手く使えないカメラを持ち出してファインダーを覗いて写真を撮る。他の誰と比べるでもなく、SNSでいいね稼ぎするでもなく、気の済むまでカメラを持って歩き回る。そういう時間は人生において大変重要な時間だと私は考えます。